水無瀬殿(水無瀬離宮)の概要

 現在の大阪府三島郡島本町には、かつて後鳥羽上皇の水無瀬殿(水無瀬離宮)が存在した。後鳥羽上皇は多数の離宮を所有したけれども、 高陽院、二条殿などの本所となる御所を除いては、上皇の訪れた頻度や滞在期間の上で、この水無瀬離宮は他を凌駕している。
 従来の水無瀬離宮に関する研究では、水無瀬離宮を単体の邸宅であるとして、水無瀬神宮の場所にあったものが、大洪水で現在の関西電力社宅の辺りに移されたとするばくぜんとした認識であった。しかし私は平成20年以来、この離宮の研究に取り組む中で、この離宮は単体の邸宅のような小規模なものでなく、次に述べるような、鳥羽、白河、平泉、福原、鎌倉などと並ぶような中世都市であったことを見出した。
 水無瀬殿は、後鳥羽上皇の近臣であり内大臣であった源通親(みなもとのみちちか)の山荘を離宮とした第1期(正治2年1200~元久2年1205)、寝殿の改修や上皇の御願寺である蓮華寿院が建立された第2期(元久2年1205~建保4年1216)、新御所や山上御所が造営された第3期(建保5年1217~承久3年1221)と次第に拡充された。
 文献史料からは、この水無瀬殿に、本御所・新御所・南御所(薗殿)などの複数の御所、馬場殿・小御所・長舎状建物である長廊などの附属施設、山側に設けられ庭園施設をともなった山上御所、上皇の御願寺である蓮華寿院などが設けられていたことがわかる。また、この地域には六条宮雅成親王の御所や、源通親、大炊御門頼実、尊長僧都などの近臣の宿所もあった。とりわけ、源通親の宿所は湧泉のある邸宅であったことが、「内府泉(ない ふせん)」と呼ばれていることからうかがえる。そして、伝聞ではあるけれども、この地域に京の重要な流通経済拠点である魚市が移設されたことを示す記事もある。また、桜井寺、衆生寺(しゅじょうじ)などの寺院もあった。
 これらの遺跡は現在の水無瀬神宮の周辺だけでなく、島本町域に広く展開していたものと考えられる。平安・鎌倉時代の平安京内の遺構は、京が中近世の都として存続していたことから、後世に深刻な破壊を受けている。
 これに対し、水無瀬は、田園であったため、都市化がなされてからも地下深くまで掘り下げて開発がなされていない場合も多く、水無瀬殿に関連する遺構のかなりの部分が、今なお地中に良好な状態で残されていると考えられる。
 後鳥羽上皇の治世は、日本の歴史にとって大きな画期となる時期である。水無瀬殿は、平安京外にあり、しかも山城国外にあるにも関わらず、上皇の滞在時はここで政務の裁定が行われることもあった。上皇滞在時の水無瀬殿は、 京の高陽院と同様に、日本の政治的中枢と言っても過言ではない場所であったのである。
 ここに離宮が営まれた背景として、明媚な風光が大きな関わりを有している。特に淀川対岸の男山に対する眺望は、選地設計がなされる上でも大きな意味を有していたと考えられる。
 この水無瀬殿がかつて存在した大阪府三島郡島本町は、第2次世界大戦後、急速な都市化が進んだ。しかし、水無瀬殿が存在した当時を彷彿とさせる歴史的景観は、すべてではないものの今もかろうじて残されている。
 中核区域と考えられる本御所跡(現・水無瀬神宮)と新御所跡(関西電力社宅)の付近には、当時の街区の痕跡を見いだせる。とりわけ、本御所と新御所を繋ぐような位置に、幅約10m、長さ約100mの異常に細長い形状の農地が存在する。これは馬場としても用いられた、水無瀬殿の中核区域を東西に貫く中心街路の痕跡と考えられる。
 近年の発掘調査により、2010年には水無瀬殿に関連すると考えられる礎石建物、2014年には山上御所である可能性のある庭園施設の遺構が検出された。また、2016年には先述した馬場の推定地の北側で、これと方向性を同じくする6つの土坑が検出され、約20万点の土器が出土した。
 JR 島本駅西側の山(当時の和歌などから、これが本来の水無瀬山と考えられる)の麓の桜井には、池中に庭石と推定される大きな石が水没している御所池がある。後鳥羽上皇皇子の六条宮雅成親王の御所が水無瀬に存在したことが文献史料に見えるが、小字名「六条殿」である御所池の辺りに、この御所が存在したと推定する。この池の南側に隣接した農地には、岬状の州浜を有する苑池の痕跡と考えられる地形が現存する。ここに推定される苑池は、背後の丸岡山や、男山を望む眺望を重視した、周囲の景観や眺望と一体化した風景式庭園としての構造を有するものであったと考えられる。桜井は水無瀬殿にとって重要な核となる場所の一つであったと考えられる。